連載4回:「初午」(はつうま)と「いなり寿司」について【日本料理研究家/近茶流嗣家・柳原尚之】
節分が過ぎて、最初の午(うま)の日が「初午(はつうま)」。全国の伏見稲荷ではさまざまな祭礼や行事が行われる。しかし、初午について「なんとなく聞いたことはあるが、よくは知らない」という方も少なくないだろう。実はこの日は、伝統的に「いなり寿司」を供えたり、食べる風習があったりするのはご存知だろうか。その理由とルーツは? そもそも「いなり寿司」はいつから食べられているのか?
NHK『きょうの料理』講師でおなじみの「江戸懐石近茶流嗣家(きんさりゅうしか)」・柳原尚之さんに、さまざまな角度から「初午」と「いなり寿司」の雑学について解説していただいた。
そもそも「初午」とは? 「お稲荷さん」との関係は?
初午とは、稲荷神社の祭りであり、2月の最初の午の日をいいます。本宗は京都の伏見稲荷大社です。日本で信仰されている神様の中でも稲荷大明神は格の高い神様で、稲生または稲成というように、稲と豊作を司り、初午の日に豊作祈願の祭礼が行われることが多いです。
江戸時代、市中にはたくさんの稲荷の社があり、親しみを込めてお稲荷と呼ばれ、その縁日である初午は盛大に祝われてきました。当時、稲荷神社で有名なのは「日比谷稲荷」と新橋「烏森稲荷」などです。豊作を司っているということで、商売繁盛にもつながり、商家でも大切にされてきました。
文献によると、初午の日は普段は一般の人が入れない大名屋敷中の神社でも開放されてお参りができたようで、人々は前日から太鼓などで盛大に囃し立て、お祭り騒ぎで盛り上がり、いろいろなお稲荷さんにお参りに行くということも行われていたようです。
ところで、お稲荷さんという連想から、稲荷の神様は狐(きつね)だと思っている人が意外に多いようですが、狐は稲荷大明神の眷属(けんぞく)、つまりお使いであって、狐そのものを祀っているのではありません。
なぜ「初午」に「いなり寿司」を食べるのか?
江戸時代、初午には「初午いなり」といって「油揚げ」を食べる習慣もあったようです。実際に油揚げをお供えするところも多かったことから、その後、初午にいなり寿司をお供えし、食べる習慣につながったのでしょう。
これは余談ですが、お稲荷さんが狐の好物といわれていますよね。ある人が実験として、動物園などで狐に油揚げを与えてみたところ、雑食性でなんでも食べるといわれる狐が、油揚げは食べなかったそうです(笑)。実際は、油揚げの色を、狐の毛皮の「きつね色」に見立てたため、いつのまにか好物ということになったのかもしれません。
「いなり“鮓”」の起源はいつ?
寿司や調味料の歴史から辿ってみると、酢を使った寿司が登場したのが、江戸時代の中期以降ですから、いなり寿司自体の歴史はそれほど古いものではないようです。
資料によれば、1836(天保7)年の天保の大飢饉の直後に幕府から「倹約令」が出て、当時流行っていた握り寿司などを禁止された時期がありました。その時、油揚げを甘辛く煮て、質素だけれどもおいしい「いなり鮓」(*当時は「いなり“鮓”」と明記されていました)が広く食べられるようになったようです。その後、嘉永年間(1848~1853年)には、東京・日本橋には何軒もの「いなり鮓屋」がありました。もっとも、当時は飢饉ですからお米ではなく、おからを詰めていたそうです。
当時は1文20円くらいの計算として、いなり鮓が1個4文。そばが16文ほどでしたから、そば一杯でお稲荷さんが4個食べられるお値段でした。
地方によって「いなり寿司」は形状が違う
関東と関西では「いなり寿司」の形状や調味は異なります。
関東では伝統的に、長方形に切った油揚げを醤油と砂糖で甘辛く煮て酢飯を詰め、俵型に仕上げることが多いですが、関西では三角形に切った油揚げを使い、中に詰める酢飯も、甘辛く煮た椎茸やにんじん、ゴマなどの具材が入ることが多く、「五目いなり」と呼ぶこともあるようです。
この形の違いは、関東は豊作を意味して米俵に似せて俵型にし、関西は狐の姿に似せているともいわれています。
おいしい「いなり寿司」のお店はココ! おいしい作り方も伝授します
私がお気に入りで「いなり寿司」を販売しているオススメのお寿司屋さんがあるので、こっそり教えましょう。また家でおいしく作るコツも伝授するので、ぜひチャレンジしてみてください。
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